19世紀終わりの黄金法によってエスクラーヴォ達は自由を得ます。
しかし彼らは社会から見捨てられ、マウタを結成します。
黄金法の制定と支配からの解放
キロンボに対する軍事費の負担や廃止主義の運動から、ついに奴隷制廃止へと社会が動いていました。
当時のブラジルの皇帝イザベル姫も、制度の廃止推進者として動いていました。
1888年、プリンセスイザベルの調印した黄金法により、とうとうエスクラーヴォ達は支配から解放され自由を得ました。
またこの黄金法の制定は、農園を始めブラジル全体に強烈な人手不足をもたらし、
移民政策への転換が推し進められ、1900年代前半の大勢の日本人も含む移民の増加へと繋がっていきます。
自由を得た者達の苦痛
解放され自由を得た者達は、幸せになった訳ではありませんでした。
彼らの大部分は家を失いどこにも住むことはできず、仕事もなく、
ブラジル社会から差別されていました。
ブラジル社会は彼らを、怠惰で能力のない者とみなしていました。
教育も全く受けたこともなく、読み書きもできない彼らは社会生活を営むのも難しかったのです。
マウタの台頭とカポエイラの禁止
仕事のない彼らの中にボディーガードや暗殺者としての仕事をする者も現れ、彼らはカポエイラをその仕事に利用しました。
リオデジャネイロにはマウタというギャング団が台頭します。
特に巨大なマウタ、「ナゴアス」と「グアヤムン」は多くのカポエリスタを含み、マウタ同士の敵対なども問題でした。
当時君主制が終わり、共和国となったばかりのブラジルの政治は混迷しており、
マウタは共和党と自由党の暗殺者としても使われていました。
そういった中政府はカポエイラをブラジル全土で禁止しました。
当時の首都リオデジャネイロは社会情勢が混沌としており、
警察の記録には、カポエイラは格闘の手段とされていたのです。
ブラジル全土にはカポエイラを健全に練習する市民もいました。
しかし彼らは逮捕され、拷問を受け、多くの場合は警察に殺害されることになります。
その5に続く。。。。
「カポエイラの歴史その1
植民地時代のブラジルとカポエイラの起源」
「カポエイラの歴史その2
カポエイラの弾圧とキロンボ、ズンビの存在」
「カポエイラの歴史その3
ブラジルの独立とカポエイラの抑圧」
「カポエイラの歴史その5
ヘジョナウとアンゴーラ」
「ブラジルでの近代のカポエイラのスポーツ化の歴史」
「カポエイラの特徴と多様性」
「カポエイラが禁止されていた時代」