ペドロ ミネイロ

1ヶ月前の記事に「ナシメント・グランジ」についての解説をしました。
https://capoeira-tokyo.com/blog/nascimento-grande/

ナシメント・グランジやビゾウロ・マンガンガと同じ時代に生きたカポエリスタの「ペドロ・ミネイロ」という人物について解説するとともに当時のブラジルの社会情勢とカポエイラという言葉の置かれた立場について考察していきます。
この記事に出てくるペドロ・ミネイロについての事実は、ブラジルの情報誌「Afro-Asia」32号
(2005年)に記載されたペドロ・ミネイロについての記事が主となります。

Pedro Mineiro

ペドロ・ミネイロ(左)とセバスチャン・ソウザ(右)

ペドロ・ミネイロは本名をPedro José Vieiraといい、1877年にミナスジェライス州のオウロ・プレットで生まれました。アペリード(ニックネーム)である、ミネイロというのは「ミナスジェライスの」という意味で、彼がミナス出身であることからそう呼ばれたと思われます。

彼は20代前半にはすでにサルバドールで居住しており、小さな目、厚い唇、広い鼻を持った黒人男性でした。 彼の髪はカールしていて眉毛は広く、薄い口ひげともみあげをしていました。読み書きができ、配達人や船員として働いていました。彼の体にはナイフやカミソリによる傷跡がたくさんあり、これは彼がさまざまな場面で闘争をおこし、何度も捕まったことからできたものでした。

彼が事件を起こした数々の記事をみると、当時のカポエイラ、またカポエイラスという言葉の使われ方が、現在のカポエイラの意味することと大きく異なるのがわかります。

例えば

「政治家、権力者、暴動者、カポエイラ、は必要に応じて選挙当日に党内で暴力を振るい混乱をおこした」
「保守党とリベラル党の間の選挙紛争において、カポエイラが重要な役割を果たしたことは知られているが〜〜」
「〜〜〜これらの「プロの殺人者」の中には、銃撃を主導した容疑で起訴されたイノセンシオ・セテ・モルテスとカレスティアデ・ヴィダという二人のカポエイラスがいた」

というようにカポエイラ、カポエイラスという言葉は、今の文化的なスポーツであるカポエイラではなく、黒人の人々のさまざまな事件を起こす集団や個人、今で言うギャングやマフィアという意味合いで使われています。実際に彼らは現代の「カポエイラ」である楽器を叩いて音楽を奏でて戦ったり踊ることもしていましたが、その人たちのグループが無法者、ならずものの集団を意味し、そういった社会の中の1派閥としてカポエイラという呼び名をつかっていました。

当時の1800年代後から1900年代初期のブラジルは、秩序と無秩序が同等に存在しているような時代で、警察や政府は腐敗し、暴力で市民や政治、選挙などをコントロールし、また軍、市民の団体や犯罪集団も暴力によってそうした政府や警察と対抗したり、さまざまな衝突、事件がたくさん起こるような世界でした。
政府や警察、軍という現代と同じ言葉が使われているだけで、まるで戦国時代や江戸時代、幕末に「幕府、役場、武士、農民、」といった人たちが、〇〇の変とか、〇〇一揆とか、〇〇の戦い、というような事変で刀で斬り合い国が動いていた時代の日本と似た部分があると感じます。

暴漢として有名だったペドロ・ミネイロは1914年に「サダルーニャの犯罪」と呼ばれる事件をおこします。12月26日に、この時代でいう「カポエイラス」と船乗り等の間で銃弾による襲撃事件がおこります。バーでピアウイ号の船乗りたちが食事をとっていたところ、カポエイラスのペドロ・ミネイロ、セバスティアン・デ・ソウザ、そしてブランコとしても知られるアントニオ・ホセ・フレイレに襲撃されました。その原因は、この前夜に売春婦の女性に対する嫉妬からペドロ・ミネイロと関与した船員の一人との間で起きた喧嘩だとされています。また以前からペドロ・ミネイロ達と船乗りたちの間では衝突、紛争がありました

バーでの銃撃は約15分間続き、大混乱の事件で2人の船乗りが死亡し、ペドロ・ミネイロ、セバスティアン、ブランコはセ通りから逃走しようとしますが、警備員と一般人に逮捕され、最寄りの警察署に連行され、そこから公安局に移送されました。
裁判での証言の当日、多くの人が建物の前に集まりました。ペドロ・ミネイロは最初に尋問を受けました。 報道によれば、職業は何であったかと尋ねられたとき、彼は警察に雇われており、市内全域で職務を遂行していると明言した。 どのような立場なのかと尋ねられると、彼は警察の副官であり警察署長の命令だったと答えた。犯罪自体については、「秘密警察の職員であり、セバスティアンとブランコと一緒に家でコーヒーを飲んでいると通りで騒ぎがおこり、家をでてみると、船員に襲われ、ナイフで身を守ろうとしたといいました。この証言に続いて、他の 2 人の被告、セバスティアンとブランコの証言が続き、彼らも自らを「警察秘密」であると宣言しました。

そのとき、予期せぬことが起こります。侮辱されたと感じたピアウイ号の船乗りの1人が、警察本部当局人たちの前でペドロ・ミネイロを銃撃しました。この攻撃は大混乱を引き起こし、20人以上の警察官、船員、裁判官、警察署長が慌てて殺到しもみあい、ブランコとセバスティアンは混乱に乗じて逃走しました。銃撃を受けたペドロ・ミネイロはこの数週間後27歳の若さで亡くなりました。

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