カポエイラが禁止されていた時代

どうもりゅうです。

カポエイラはブラジルで、禁止されていた時代がなんどもありました。
しかし今では国技と呼ばれ、世界無形文化遺産にも登録され、ブラジル国内、全世界で楽しまれています。
一体どういった経緯と理由で過去に禁止されていたのでしょうか。
詳しく解説したいと思います。

1800年代のブラジルではカポエイラは、労働者としてアフリカから連れてこられた黒人たちの習慣そのものでした。
厳しい労働をするときも、警察沙汰のような騒ぎが起きたときも、お祭のときも、常にカポエイラが登場していました。こういうことは、外国人による資料や、口伝や、新聞や警察日誌、裁判の記録などによっても分かります。これらの資料を見ると、カポエイラの弾圧時代が、カポエイラの歴史の中で、最も厳しい逆境の時代であったことが伝わってきます。

1830年に制定されたブラジルにおける最初の刑法、ブラジル帝国刑事法典には、特にカポエイラを犯罪として定める項目はありません。
そもそもこの時代に、黒人の奴隷の身分の人々は自由などなく、法律で規定するまでもなく、集団で集まって騒いだりするだけで厳しく罰せられる時代でした。

とはいえ大勢いる奴隷たちを完璧に管理できているわけではなく、彼らは自分たちで勝手に集まり、祭りを計画したり、騒いだり、喧嘩したりしていました。そういった集まり、お祭りなどの最中に目立ってカポエイラが行われていたので、社会の規律を乱す行為や犯罪と同一視されてしまったようです。

「マウタ」(カポエイラ軍団)ー禁止されながらも政治利用された時代

厳しく取り締まる一方で、カポエイラは途絶えはせず、むしろ奴隷や黒人以外の社会の人たちにも広まっていきます。1830年代以降、更に特殊な形で犯罪とされながらも同時に普及するという矛盾した道を進んでいきます。

1830年ごろから、リオデジャネイロに急激に外の都市から人が流れ込み、人口が急増します。その多くは貧しい人々や奴隷の黒人たちでした。彼らの中にはカポエイラをやっている人が多く、カポエイラをする人々が集まる集団が形成されました。

その集団の強さに目をつけた政治家が、政治や選挙の不正に利用し、当時混沌としていた政治会の裏でカポエイラ軍団「マウタ」と呼ばれる集団が暗躍しました。
当時の自由党と保守等の争いは過激さを増しており、不正選挙や市民議会の襲撃といった暴力にマウタが利用されました。
職にあふれた貧民層や正規の職にあふれた人々の多くがマウタに加わり、規模を拡大しました。

こうして規模を拡大したマウタですが、更に政府は「グアルダ・ネグラ」 (黒人警備隊)という秘密組織まで作り出します。これは女王の警備隊という名目したが、警察や軍隊のように駆り出され、革命組織の鎮圧などのなどの武力として用いられました。リオではカポエイラは貧しいものや悪事を働くものたちのもの、というイメージを持ちながらも合わせて警察や政府といった公的な機関のグレーな仕事を担うなど社会に密接に関わるほどになっていたのです。

正式な方で禁止され弾圧された時代

1890年に制定されたブラジル合州共和国」(República dos Estados Unidos do
Brasil)の刑法では、第13 章に、次の条例が規定されました。

条例第402 号:浮浪者およびカポエイラをする者に関す
る項――カポエイラとして知られる敏捷な身体能力を駆使す
る運動を、公共の道路または広場で行うこと。身体に傷害を
与える可能性のある武器や器具を所持して走り回り、騒動や
混乱を招くこと。特定の人あるいは無差別に人を脅すこと。
又は他者に迷惑を及ぼす行為。/ 刑罰:上記の行為に対して
は禁錮二カ月から六カ月。/ 単項:上記に該当する者が何ら
かの集団またはカポエイラ軍団に所属している場合は犯罪性
が高いとみなされる。組織の上層部や頭領の場合は罰則を二
倍にして適応のこと

政治的な混乱を治めようとする政府や大統領のもと、カポエリスタを含め騒ぎを起こしそうな人々は全て追放しようと逮捕、追放を徹底しました。

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