ナシメント・グランジ

どうもりゅうです。今回は、150年以上前に活躍したメストレ ナシメント グランジについて解説します。

Nascimento Grande

ナシメント グランジは 本名をホセ・ナシメント・ダ・シルバといいます。1842年にペルナンブッコ州のレシフェで生まれました。ビゾウロ・マンガンガの生まれる50年近く前のことです。

彼に関する記録は、様々な問題行動や暴動、犯罪についてです。ビゾウロも同じ状況ですが、出身身分の低いアフリカ系のブラジル人は迫害されていたため、文書や記録に残る人の多くは警察や裁判などの犯罪に絡む文書などによる、という事情もあるのでしょう。

ナシメント・グランジは、1842 年にペルナンブコ州の州都レシフェで生まれました。 彼は黒人で、長い口ひげを生やし、大柄な体格(身長約 2 メートル、体重約 120 キロ)で、若い頃から速く機敏でした。 乱暴者として多数の記述が残されており、他人の挑発を断ることはなく、とても強く喧嘩や揉め事に負けたことはなく、たびたび騒動を起こし喧嘩に勝ってから警察に行き自首しました。

その行動により、彼は正直さと誠実さ、勇気と気高さの模範でした。 そうした功績により、彼は当時の有力な政治家たちの保護を受け、 さらに常に自分を守るために戦う彼を、マスコミは「ヒーロー」として取り上げました。

ナシメント・グランジとまた別の無法者で武闘家の「ジョアン・サビ・トゥード」の2度の対決は大きな事件として知られています。

1度目はカルモ教会の前で発生し、流血の衝突の末、ナシメント・グランジが対戦相手のジョアンを背負って病院に運びました。

2度目の対決はLargo da Paz(平和広場)でおこなわれ、大勢の観衆が見守る中長く激しく戦いました。2人は拮抗する戦いの中で教会の中に入った折、地域のリーダーであった牧師は教会で戦う2人を強く叱責しました。

2人は敬意を表して牧師の求めに従い教会を後にして、2度と2人は争わなかったとされています。

1936年、ナシメント・グランジは94歳の時、リオデジャネイロ州のジャカレパグアで亡くなりました。無法者であったにも関わらず、政治家のジルベルト フレイレは有名で黒人の英雄であった彼を政府として追悼するように求めたそうです。

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