メストレビンバの格闘技試合での功績

どうもりゅうです。
カポエイラの歴史の中で重要な人物であるメストレビンバですが、彼の数々の功績の中に格闘家として活躍しカポエイラの地位を押し上げたことがあります。

今回はその点にフォーカスして当時の社会情勢を絡めて詳しく解説します。

まずメストレビンバについて下記をお読みいただくことをお勧めします。
メストレ ビンバ

メストレ ビンバがカポエイラヘジオナウを確立する以前にの話となります。
1930年代ブラジル国内でもスポーツというのは経済的利益を得る段階にあり、一般の人々を魅了し、興奮させていました。陸上競技、サッカー、ボクシングなどのメジャー競技では黒人にとって社会的地位向上の手段となり、黒人は対等な条件で競争し、活躍することが社会に認識されるようになりました。
当時カポエイラはまだ違法ではありましたが、1936年サルヴァドールの有名なイベント(ドイスジジューリョ )でデモンストレーションとして披露されるなど、以前は許可されていなかった環境にも徐々に浸透していきました。
時期を同じくして、柔術やルタ リブレ などさまざまな格闘技がブラジルに伝わり、これらは徐々に人々の心を掴んでいました。逆に国内の格闘技であるカポエイラの一部の愛好家を悩ませました。

このようななかで、”オデオン ダ セ” スタジアムがエンターテイメントとスポーツの試合のための現代的なセンターとして完成します。

1936年2月6日、夜の開幕戦ではメストレビンバとエンリケ・バイアが対戦しました。
試合はビンバが勝利し、チャンピョンベルトを獲得しました。
翌日の新聞にはこう書かれています。
「ビンバはバンバ(達人)だ! メストレ・ビンバが対戦相手のエンリケ・バイーアと並んでステージに上がったとき、ギャラリーは歓声を上げた。 機敏で柔軟性に満ちた数分間のリズミカルなプレーの後、メストレ・ビンバは温かい拍手の中、胸へのキックで相手を地面に沈めた。」

同じ年にビンバは更に2試合に出場し、どちらも勝利を収めベルトを維持しました。

この功績を残しても当時はメストレビンバや格闘技としてのカポエイラに批判はありました。
こうしたリング上でのカポエイラには定まったルールも存在せず、定められたとしてもそれが守られるとも限りませんでした。
またのちにアンゴーラと呼ばれるスタイルの人々と、のちにヘジオナウとよばれる「ルタ ブラジレイラ バイアーナ」の間には深刻な亀裂がありました。深刻な亀裂という要因があった。異なるカポエイラの支持者間でこうした論争は頻繁に起こり、混乱や不満を引き起こしました。リングにおけるカポエイラの短命でしたが、サルバドールでは1936年12月にオデオン スタジアムを閉鎖しました。
サルヴァドールでのこうしたカポエイラの実践は、その自由化と文化の発展への道を開いたのは間違いありません。

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